建築系ラジオ&村おこしアートの悲しみ2(身辺メモ)

「さて、こういうわけで、これは他の回も聴いておかねばなるまいと思い、「建築系ラジオ」を初めて拝聴したのだったが、それがいきなり「こたつ問題」の番組だった。

35A: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」 - 建築系ラジオ-2部

ディテール侍節が冴えわたる(あとで気付いたが、何気に壁嬢もいるじゃないか)話は面白いが、なんというか。
趣旨はわからなくはないが、「建築」関係者がこれを「建築界の問題」として謝ってみせたりしなければならないのか、という点は、よくわからない。

僕自身は現物を見ていないし、作品自体も参加型で成長するよ うなので何ともいえないが、仮に不出来だったとして、「ダメなアート作品」は単に「ダメ」と評価すればいいのではないか。「アート祭り」に貧相な作品が出 品されたこと自体は、建築の問題というよりも、こうした玉石混交を許容してしまう「アート祭りのシステム」の問題だろう。審査員のリテラシーの問題という べきか。ダメな作品ひとつ見ただけで「建築系はダメな作品を送り出す」なんて思い込むほど来場者がみんなナイーブじゃないと思う。作者が建築系だという理 由で責められるのはちょっと気の毒だ。作者の「属性」というのは「アート作品」の鑑賞や享受においてそんなに重要なんだろうか。どうもこのへんの現代アー トのプロトコルというかロジックというか、扱いの「作法」はよくわからん。

もっとも、提案時のプレゼンテーションを見るに、それはいかにも『洗濯物と植物しか描いていない』系(@藤村龍至)のレンダリングではあって、そう いう意味で、建築系の人たちとしては、近年のこうしたノリの提案が実際は建築物として実現するにはかなりアクロバティックなエンジニアリングが動員された りもする、相当なガッツ(と政治力)がないと「具現化・物体化」しないたぐいのものであるにも関わらず、夢想提案だけはわりと簡単にできてしまうし、そう いうテイストの提案が持てはやされたりするために、キッズが勘違いしてしまう、という、「建築系内部の問題」と受け止めることは可能である。というか、そ れのほうが深刻なんじゃなかろうか。「こたつ問題」は、「建築力を伴わないSANAAワナビーを許す建築コミュニティの問題」なのかもしれない(ラ系のパ ストラル症よりもたちが悪いかもしれない)。

建築キッズたちが引き出しうる教訓としては、「むしろ、いっそ建築の国際コンペとかだったら、投下される資源が大きいために、エンジニアやゼネコン がよってたかって実現させちゃうなんてことも起きかねないが、こういう村おこしアート祭りの場合は、結構あっさりハシゴを外されて放り出されることもあ る」ということを覚えて、気をつけようね。ということだな。


コメント

そもそも建築キッズ達はこのような声を聴いているのか
それでもなおある像を信じ続け、そのまま続けるのか
そして、それは建築キッズだけでなく現在の若手建築家にも投げかけたい問いです。このまま行くと日本の建築界はぼろぼろになるのではないでしょうか

コメントありがとうございます。
じつは、上記、出展者たちを慰めるというか、少し擁護しようと思って書いたのですが、なんか読み返してみたらちっとも擁護していない趣になっちゃいました。。。 まあ、建築のトレンドは流行り廃りがあるし、それ自体はあまり心配していないのですが。

確かに彼らは少しかわいそうだったかもしれませんね
過去にもダメダメなアート作品はありますから、たまたま彼らが取り上げられただけで、この問題に関しては誰でも良かったのではないかと思います。あえて理由をあげるなら東京大学の大学院生だったということでしょう。後輩でもあり、話が展開しやすそうでもあります。

もちろん、建築系の人々のインスタレーション、アート作品には(もし本気で作っていたとしても)アートをなめているように感じることが多々あり、建築の恥さらしはいい加減やめてほしいと思うこともありますが、

今回のこたつ問題は、これから展開するとすれば石川さんの言う「建築系内部の問題」の方へと行くでしょう。
今まで暗黙の了解の域に誰もが触れずにきたことはおかしなことだと思いますし、建築系ラジオのメンバーの方々は教育者であり審査をする機会も多いですから、それを危惧しているのだとも思います。

な るほど。なんか、建築の人はどこでも「建築代表」な顔をするような気がして、そんなにいつも建築を背負っていなくてもいいじゃんかと(逆に言えば、建築関 係者だからといって何をするにも建築的に評価しなくても、と)思うこともあるのですが、今後、建築内部の問題として、たとえば「あれをセルフビルドの建築 物だと見なしてみたらどうよ」議論になるならそれはそれでありかもしれないと思いました。

考えてみたら、建築系の人々の「緑のデザイン」にはいつも、環境へのリスペクトが絶無というか、植物をなめてると感じることが多々あります。もしかして、建築は隣接分野のみんなに、なめんじゃねえぞと思われちゃう、悲運な領域なんだったりして。

んー、私自身、建築の枠の中にいるのですべての人がそうではないとしか言えません。他分野の人からすれば、そう見えているんですよね

「あれをセルフビルドの建築物だと見なしてみたらどうよ」というのはちょっと極端な気もしますが、
何か自分が作るものへのこだわりや思い入れが軽くなってきているようにも感じます。そして、それを発表した時に起こりうることなど考えるべきことを考え ず、審査に通るものをつくり、結局自分の建築力は一向についていかない。いろいろなものがどんどん軽くなってきているようにも思います。

「緑のデザイン」についてもそれが言えるのかもしれません。確かにメディアに露出している多くの建築家について私もそう感じています。御存知だとは思いますが、一方で環境をリスペクトして考え作っている人も沢山います。
建築をそう感じて、建築から出て行く友人もいました。それでもなお建築に魅力を感じるから未だに私はこちらにいるんですけどね。

もちろんです。僕も建築に魅力を感じ、多くの素晴らしい「建築系」と接する機会を得ているからこそ、このへんでこんなことしているわけです。

自分は建築業界はよく知らない鑑賞者です。
彼らの他作品を見たことがあり、しかもそれらは結構しっかりとしたコンセプトとクオリティと保っていました。しかしながら今回こういった作品が出品され、なぜこうなったのか?検索しているうちにこちらにたどり着きました。
「建築内部の問題」もあるのかもしれませんが、今回は地方に出て行って制作する事が、彼らの計算と大きく異なっていたのではないかと思います。計算できる事も実力のうちと言われればそれまでですが。

僕も代官山の舗装ベンチなんて良いと思いました(これも実物は見ていませんが)。

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