しかし、昨今のコンペでよく見られる表現が、実作へと場を移動することで、かなりのギャップを内包してしまっていることを指摘できたことは、ラジオ配信の最も重要なことであったと思う。だからこそ、コンペ作品の想像力と、優秀者の模倣のような作品が溢れかえっている現況についての考察をもう少し聴けたらと思った。ネット空間での活動が、盛んになるにつれて、学生の立場からも言論に参加できることは良いことではあるが、コントロールしきれないところで、模倣を増幅してしまうこと(模倣を増幅させてストリームを形成したり亜流を形成することが目的ならばそれでよいのだけど)の危険性に問題を感じている。」以下、こちらにて。
blogの最近のブログ記事
に、twitterで参加した。8時過ぎくらいまで職場を離れられない用事があったのだが、結果的にはストリーミング配信視聴+twitter打ちまくり、という体制は実に仕事の邪魔で、ほとんど進まなかった(少しは進んだ)。
今回、取り上げられた「作品」とそれをめぐる言説、いわゆる「こたつ問題」についてはまあ、もういいだろう。いちおう、製作者本人と「ラジオ側」と の一種の「和解」が決着していて、事前に僕が思っていたほどの後味の悪い結末にはならなかったらしい。ということは記しておく。」以下、こちらにて。
面白かった。
Twitterによる実況中継と会場の映像配信が行われ、
最大800人を超す人がアクセスしてくれたとの事。
実験として行われたのだが,
従来のシンポジウムを変革する試みと言えます。
2次会は、五十嵐太郎さんの教授就任祝い。」
田中純「書評:互盛央『フェルディナン・ド・ソシュール』」、「読売新聞」2009年9月27日付朝刊。
まったく関係ないけれど、「みんなのこたつ」という作品をめぐって、「こたつ問題」が議論されていることを昨日知った。」
(c)田中純, 2009(Blog (Before- & Afterimages))
掲載元URL= http://before-and-afterimages.jp/news2009/2009/09/post-37.html
*
**** 様
メールをありがとうございます。
下記のメール、とても興味深く拝読しました。
おそらく、**さんは若い世代の意見と感覚を
代表しているところがあると思いますので、
**、**************だけでなく、
ぜひ発言もしてもらえたらと思っています。
(**、**する人がいれば良いのですが、
まだ分かりません・・・)
さて、思ったことを書き込むことは、
たとえ大きく間違っていたことがあったとしても、
僕は良いことだと思います。
完璧なことを言える人なんて、誰もいないし、
思ったときに自己の責任において発言し、
それが否定されたり、反論を受けたら、
それはそれで、自分と違った人の意見として
受け止めれば良いと思います。
(どの意見が正しいのか、よいのかは別として、
複数の意見を理解するのは大事なことだと思います)
ただ、おそらくこの書き込みに対しては、
五十嵐太郎さん、石川初さん、山田幸司さんらからの
反発も多いでしょうし、僕から見ても、
多少荒削りな部分が、見えてくる部分もあります。
もちろん、それはそれで良いと思うんです。
むしろあった方が、しっかりと気持ちのこもった
文章になるのではと思います。
往々にして、書いた本人というのは、自分の文章を
客観的には読めない場合がありますので(僕もそうです)、
僕からも簡単なコメントだけ、しておきますね。
ただ、なかなか端的には言えないので、
また下記でも不十分だと思いますので、
28日の飲み会にでも詳しくお話ししましょう。
モラルというものは、人によって、社会によって、
年代によって、結構違うものだと思います。
ウェブのモラルも、特に決められたものではなく、
著作権など法律に絡む部分でなければ、
誰かが一律に、このときはこうすべきと、
決められない部分があるかと思います。
例えば、10年ほど前であれば、リンクを張る
リンク先のウェブマスターに、一言断ってから
リンクを張るという見えないルールもありました。
しかし、いまやそんなことをされても、
むしろ一つ一つ返事を出すのも大変だし、
断りなくリンクを張ることはまったく問題で
ないように変わってきたと思います。
この背景にはgoogleなど検索システムの出現もあります。
その意味で、webにもう少し長く接している年代の
人から見た場合には、「何がモラルであるか」は、
普遍的なものではなくむしろ可変的なものとして
見ている場合が多いかと思います。
山田さんを不快に思う人は多いかと思うのですが、
山田さんを理解する人も少なからずいます。
********やモラルは、人によって
違うという例かと思います。
辛口タレントを嫌いという人も入れば、
好きという人もいると思います。
例えば僕は小さい頃はタケシはその辛口さが理解できず
嫌いな時期がありましたが、いまはそうは思いません。
建築系ラジオに関しては、極めて実験的な部分があり、
通常の紙メディアで伝えられないことを、
伝えてみようとしています。
紙メディアの言葉を、正しい言葉と考えた前提で
ラジオを聴くと、確かに議論の態度が
なっていないと聴こえるかと思うのですが、
今回の配信に関しては、
ある意味、こうやって意見が分かれて、
はじめてモラルについて、メディアについて、
議論ができるという場が生まれたのではと思います。
多分、**さんと、五十嵐さんでも、
モラルの考え方が違う。
でもそれでいいんです。どうして違うのか、
その理由を考えられるのではないかと思います。
僕は、多分その中間ですけどね。
また建築系ラジオの場合、複数の声、
まとまらない意見をそのまま議論として
伝えているということも、大事なのではと思います。
音楽に、現代になり、不協和音などが現れたとき、
クラシック音楽に慣れていた人は、
こんなの音楽ではないと思ったはずです。
伝えたいことが、一つのテーマではなく、
一つの主張にまとまらないという、
メタテーマであることもあると思うのです。
とはいえ、それは「不協和音」という
新しいテーマだとも考えられるのではと
僕は思っています。
それと、最大の問題は、****さんが、
もし建築系ラジオメンバーや石川初さんを
********がない、と下記の書き込みで
批判した場合、おそらく**さんが、
別の*****がない、として批判されるのは
簡単だと思います。
怒りに任せて書いたとありますが、
おそらく、最初に「こたつ」をみたときに、
みんな怒りに任せて、話し始めたのです。
その荒削りさは、お聴きになった通りですが、
**さんの下記のテキストも、
例えば、「***********、**********勉強してこい」
といった表現は、上から目線だといわれるだろうし、
その表現自身が、同じ言葉で批判されそうです。
もちろん、それを覚悟で、下記を書き込みしても良いと思うのですが、
僕はこれだけいろいろ考えたり、ネット上で活躍している
**さんには、もっと育ってほしいと思ってます。
その意味で、違う意見の人と、28日には会うかと思うので、
そういう人たちと意見を交わした上で、
コメントしても良いのではと思います。
相手を理解した上で、批判するのと、
相手を理解できないから、批判するのでは、
大きく意味が違うかと思います。
後者の場合は、自分の立場を主張するだけで、
相手からも理解されにくいので。
違う意見を取り入れながら、視野を広げることは
悪いことではないのではと思います。
僕もうまく書けていない点も多々あるかと思いますが、
疑問点など、また28日にお話しできれば幸いです。
お会いできることを楽しみにしています。
どうぞよろしくお願いいたします。
松田達
・ 藤村龍至くんがやっているような直接相手へのリンクは張らないことにするが、あるブログで、ものすごい上から目線で、みんなのこたつと、こたつ問題配信を馬鹿にしているものがあった。これだけならともかく、自己紹介で現代の建築思想と言説の弱体化を目の前にしていろいろ考えており、コメントやメールを歓迎と書いてあったので、松田達くんがコメントを入れ、9/28のイベントへの参加を打診したところ、数日たってもコメントはアップされず、メールの返事がない。建築系ラジオの発言を幼稚と切り捨て、学生でももう少し議論をふくらませることができるとまで言ってみせるなら、完全な無視と沈黙ではなく、せめてなぜ参加しないかという返事くらい書くべきだろう。ラジオの討論会自体が建築界の現実だとため息をつくならば、欠席裁判批判と同様、この対応自体が「建築界の現実」を反復していないか?日記を開設し、目立つものを叩くだけなら簡単。自分で社会に発信できる言説/メディアを出していくか(スノッブな態度で年寄りみたいに、いまどきの批評を嘆くだけの傍観者的な「秀才」よりも、突っ込みどころはあるけど、参加するプレーヤーとして具体的なアクションを試みる YSSKやY-PACの方を支持する)、石川初さんやモサキのレベルまで書かないと、創造的な批判にならない。」
http://news-sv.aij.or.jp/jnetwork/scripts/view30.asp?sc_id=2372
「・こたつ問題を問題化する集団のありかたについて
僕は(以前にも同じことを書いたけれども)、ダメなアート作品には単にダメだと罵ればいいのであって、何もそのダメさを建築のプロが業界を代表して 「建築の問題」として引き受けなくったっていいじゃんか、とは思う。先日、大山さんが、あれは建築業界内部の問題をわざと外部に発信する(ように見せる) ことで、逆に内部の結束を固めようという意図があるみたいに聞こえる、と言っていたのだが、そういう、「いや、誰もそんなこと頼んでないけど」という困惑 というか、建築系の人たちというのは世界が建築系だと思い込んでるんじゃないかという違和感はよくわかる。
もっとも、そういう「引き受けたがり」は建築の業病みたいなもので、地縁共同体問題から地球環境問題まで、その時その時に脚光を浴びている様々な問 題を我が事のように悩んで「建築の課題」として背負い込もうとする抜きがたい傾向が建築にはある。そこがまあ、鬱陶しいところでもあり、愛すべきところで もあるんだけれども。むろん、それは建築だけではなく、ある「社会的使命」を自覚している専門領域はみんな、多かれ少なかれそうした傾向を持っている。
あえてこれを議論の俎上に乗せる、「自他ともにそれが建築系だと認知された状況で異種格闘技的アート祭りに貧相なものを出展することの責任と、それ を看過できない背景」については、五十嵐隊長から直接、少し話を伺った。もちろん議論の余地はあるにせよ、分からない話ではなかった。来るシンポジウムで も言及があるとのこと。とはいえ、僕はどちらかというと、建築系をアート的に鍛える議論にとどまらずに、「村おこしアート祭りシステムの有効性と是非」に 議論が発展すると面白いなと思う(そうしないと、作者もちょっと可哀想だ)。
・こたつ問題を問題化する「取り上げ方」をめぐる議論について
僕自身は心情的に山田さんの側に立っている。ということをまずは表明しておきたい。そのうえで。
山田さんの「喋り」調子を批判(非難)する意見の「根拠」として、しばしば「ラジオという媒体で配信するべき内容の水準に達していない」から、と述 べられているのを見かける。「むしろ語り方問題のほうが深刻だ」とまで表明してるものもある。でも「ラジオ」と銘打っているものの、あれは電波で番組を放 送する従来の意味での「ラジオ」じゃなくて、音声ファイルをブログに掲載してるだけの「ポッドキャスト」である。あれを「公共の」というなら、細かい内容 まで検索にインデックスされて蓄積されてゆくブログやBBSのほうがよほど公共的な情報であって、かつよほど低俗で劣悪な誹謗中傷に満ちているが、それに 「作法」を要求するのはまるで「ブログだって公共のネットに公開しているなら、そのへんのマクドナルドでケータイで入力なんかするな。机に向かって正しい 姿勢でテキスト作成しろ」と言っているみたいに聞こえるが。
というか、これ、そういう意味でわざと「ラジオ」というタイトルを入れているとしたら、なかなか巧妙なツカミだけれども(いや、そこまでは考えてい なかったかもしれないが)、少なくとも今回、この「ラジオ」という言葉は、批評のありかたとかいう議論以前に、「それぞれのメディアにふさわしい内容と作 法とノリ」について、僕らのイメージは意外に強固で保守的だ、ということを露呈した。と思った。
まあ、ディテール侍のあれはもう「芸風」であって、キライな人はキライだろうが、そうなら「あの喋り調子は嫌いだ」と言えばいいと思うな。「ダメなアート作品には単にダメと言えばいい」というのと同じ話で。
追記:
ネット上の反応を見て、おもしろいと感じたのは、どうも若い人のほうが、批評について保守的なイメージをもっていること。
TWISTED COLUMN
批評についてのイメージもそうだし、若い人ほど、引用の仕方だとか語り口だとかに対して、「ネットリテラシー」とか「モラル」などと言って、察してやれよ 的な物言いをしているような気がする。オヤジが暴走しているのか、キッズがやけに射程距離の短い「空気読む世代」なのか。もちろん、オヤジをオヤジたらし めるのは、多少の社会秩序にもとることをしても周囲には叱る人なんかいない、という開き直りというか甘えでもあるのであって、キッズもあと15年もすれば みんな空気が読めなくなってくるのかもしれないが。
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http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/843
コメント
あ、podcastleはすばらしいと思います。ほかの検索エンジンもすばらしい。
怯えるかのような態度はイヤ。
「はい建築系ラジオです」→「ううう体験して出しです。」どういう空耳なんだ。
下手に訂正しないで、まずはあの「自動テープ起こし」の文章だけ読んで、なんとか意味をつかみ取る、という鑑賞法もありますね。
「Podcastleのテキストだけからオリジナルのストーリーを想像して絵にする」:デイリーポータルの企画っぽい。
なお、この討議の間、twitterを用いた実況中継や、リアルタイムの質問を受け付ける予定です。twitterコメントに、#kotatsuというハッシュタグをつけて頂ければ、コメントがグルーピングされ、同一ページにて、それらのコメントを見ることができるようになります。カルチベートトーク中、このハッシュタグがついたものは、会場でも見ることができるような形になる予定です。
詳細は、上記リンク先か、下記をクリックしてください。
以下、こちらにて。
*こたつ問題について。
・この問題は、二重化していて、みんなのこたつ自体が良 いか、悪いか、そして建築系ラジオでこうしたコンテンツを配信したのは良いのか?というトピックに分かれている。前者については擁護する意見が皆無で、こ の作品自体が批判を誘うメタフィクション的な狙いがあったという深読みくらいしかない。後者がおそらくホットで、現時点では、mosaki のテキストがベスト。
http://blog.mosaki.com/?eid=905277#sequel
・ ただし、僕は混在したハチャメチャぶりこそがラジオの醍醐味だと思っており、mosakiの意見とは違う(座談会だって相当リライトしてしまう紙メディア や、事前にかなり台本が作成されるNHKなど、既存のメディアとまったく同じ評価軸を導入するべきではない)。むしろ、彦坂さんの山田さんに関する最新の コメントに近い。
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/
・ もっとも、僕もこの配信に一部問題があることも思っていて、それに関しては、9/28のシンポジウムで述べます。ネット上では僕が考えているのと同じ指摘 している人はいないようなので。下記が、こたつ問題にケリをつけるシンポジウムの告知です。iccで開催するコープヒンメルブラウ展のチケットが余ってい るので、当日の参加者から五名様に差し上げます。また、みんなのこたつの作者ともやりとりをしていて、当日来ていただけるよう交渉を継続しているところで す。ダメならダメで、結果の概要は報告します。
http://news-sv.aij.or.jp/jnetwork/scripts/view30.asp?sc_id=2372
・ さて、mosakiもふだんは最近の仕事紹介のブログになっていたところに、めずらしく入魂のテキストが書かれたように、こたつ問題は、批評をドライブさ せる装置になっている。紙メディアの古参で「権威」とされる、新建築が送りだす越後妻有トリエンナーレのレビューは、エレベータ・ミュージックのような公 共的なテキストだが、これこそが「正しい」批評なのだろうか?(当たり障りはないけど)。ネット上の反応を見て、おもしろいと感じたのは、どうも若い人の ほうが、批評について保守的なイメージをもっていること。最近の紙メディアの言説がモデルになっているのかもしれない。が、メディアが異なれば、言説のあ り方も変化する。今はともかく、twitterもいずれそういう可能性を導くかもしれない。『都市住宅』や『批評空間』のような言説がないから(今の若い 人は両方知らないも。なら、『新建築』や『10+1』ということで)、新しいメディアはダメだという、既存のモデルに頼った思考は嫌いだ。僕が彦坂さんの ブログで建築系ラジオはパンクだと書いたら、すでに名前が出た人にパンクはできないと反論があった。しかし、おじさんにはパンクができないという意見こ そ、あまりにもおじさん過ぎて、笑ってしまう。そう、笑いこそ、おそるべき破壊力と伝染力をもっており、だからこそ、こたつ問題の配信は紙メディアにでき ないことを送り届けた。詳しくは、28日に話します。
」
そこかしこで「こたつ問題」が話題になっているので、実際どんなもんか見に行ってみた。
mosakiブログを見に来てくれる方ならこの件について既にご存じかも知れないが、それなあに?というほんの数日前の私のような人のために「こたつ問題」の概要をここに記す。
・妻有アートトリエンナーレで、東大建築学科の学生二人組が出展した「みんなのこたつ」という作品がある。(以下「こたつ」と略す)
・これは公募の中から選ばれたもので、プレゼンテーションの内容はよかった。だから選ばれたってわけだ。
・ちなみに彼らはアイディアコンペでは何度も入賞している、プレゼンテーション上手なチーム。
・しかしふたを開けると、プレゼンの内容とは違った作品になっている、しかもかなり出来がひどい。一体全体、どうしたものか。
これが、建築系ラジオが命名するところの「こたつ問題」である。
放送については、こちら↓
建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」
見に行く道すがら、そのラジオを聴きながら向かった。そしほんの数分で、これは私にとって「こたつ問題」以前に「「こたつ問題」を如何に語るか問題」だということがわかったわけです。これについては後述することとして、まず作品自体を見た感想ですが、
他の建築関係からの出展作品についても、建築系ラジオ出演者たちはひどいひどいの大ブーイングで、建築は美術できんのか云々という議論もちらほら沸き上 がっていた。そして五十嵐太郎さんは9月28日、建築会館でこの問題について語るトークイベントを開催する。ゲストは彦坂尚嘉さん、タイトルは「アーティ ストの彦坂尚嘉さんと語る、美術と建築の批評の問題について」。
個人的には、建築と美術の関係性について語るのだとしたら、こんなネガティブなネタからスタートするのはどうかと思うし、美術と呼べない危うい作品なんてものは、出展者が建築系だろうとそうでなかろうと、そりゃ出てくると思うよ、あれだけの作品数なんだからさ。
けれど、少なくとも彼らが「批評」の問題にまで発展させること、特に今回のように学生の作品を批評の場に据えようとする姿勢は、有意義だと思う。出展する からには学生だろうが爺さんだろうがアーティストなんだから、批評されて然るべきだと思う。学生を発言力のあるメディアが公の場で批判するのは酷だ、なん てゆとりな野次は言語道断だかんね?
駄作「こたつ」を無視しないという態度をとるなら、これを介して語るべきことは、いろいろあると思う。五十嵐さんらが指摘する「批評」そのものについても然り、そもそも「こたつ」を選んだ側にも責任があると思うし、ましてや住民参加で制作されたものなら、制作過程の中で調整可能だったことも、あったはず。要は妻有アートトリエンナーレ側の問題も私はすごく気になります。また、「こたつ」チームのプレゼンが上手いのは彼らの才能であって、少なくともその発想までは評価されていたわけで。実現可能性について捉えることができないのだとしたら、それは彼らの問題か教育全体の問題か、もし後者だとするなら何をどうしていけばいいか。アイディアコンペとかプレゼンの能力って、建築にとって、実作にとって、何なのか。
***********
ラジオには数人のメンバーが出演していて、前述の通り五十嵐さんや彦坂さんは、ここから全体(建築、批評、教育など)にある問題を見いだそうとする姿勢が あった。つまり批判、批評であろうとする姿勢があった。しかし中には終始「あれひどいね〜クスクス」的な文句や嘲笑のままであるメンバーもいた。山田さん なんだけど。ご本人もこちらの意見をご存じみたいなので、書いちゃうけど。ごめんなさいね。でも山田さんの一連の発言は、放送全体の批評性を大きく下げる ものだったと、私は思う。
「わざわざ名古屋から出てきたのに」「3000円も払ったのに」「東大なのに」それ、全っ然批評じゃないで す。みなさんお嫌いの「思考停止状態」そのもの。今回、彼らが東大生じゃなければこんな言われ方されなかったかしら?無料だったら?会場が近かったら? (まあ東大=最高峰なんだからおまいらちゃんとしろよ、という、東大ブランドのイメージに則った期待感はわからなくもなけど、鬼の首とったかの如くpgr してんのは、聴いてる方としてはかえって微妙)。
居酒屋トーク的な本音って確かに面白いんだけど、山田さんの論調は、誰でも聴ける音声データとして一般に公表するにはどうかと思うレベルだった(番組を編 集、放送している松田さんにこの話をしたところ「まあ、山田さんは悪役をかってでたんだよ」とのこと。ちょw未熟なものは後から「フェイズだった」と言え ば済むとでも?元々熟考して仕組んだブックならまだしも、発信側のご都合による場当たり的な寸劇くずれなら誰も付き合わんし、そもそも要らんのです)。
とにかく私は「こたつ」という駄作よりも、ラジオの中でのこの問題の「語られ方」のほうに、ずっと大きな関心を持ったので「「こたつ問題」を如何に語るか問題」になったわけです。それが狙いだったんです、裏テーマだったんです、って言われちゃいそうねw
「「こたつ問題」を如何に語るか問題」の本質は、建築クリティックの人材が少ないことだと思う。せっかく音声によるメディアが作られたのに、こたつの放送 を聴く分には「この程度かよ」と思わざるを得なかった。今、日本の代表的な建築批評ってこんな感じです、って誰かに紹介するには恥ずかしい。人選、放送の プログラムといった番組制作側の問題かも知れないが、それ以上にまず、有能な批評家が少ないんだろうなと。五十嵐さんは、自分以外の書き手が足りないこと を10年くらい前から問題としていたけれど、現在もその状況はあんま変わってない。
これまで建築のメディアが書き手を育てたり発掘したりすることに鈍感で、パっと見ハクのつく建築家や大学の先生に、その都度その都度で「ちょっとコメント してくらさいお」という軽いノリで「視点」や「思考」を言葉にさせよう、提供させようとしてきた姿勢のツケかもね。もちろん書き手側もそれでよかったんだ よね、言論を発表することが建築村での大事件、大きな成果になってたから。おじさんの時代は、書き手も読み手も「難しいこと考えてます発表会」で満足でき ていたのかも知れない。今回の「こたつ」に関する山田さんの発言みたいなのも、悪のりです、言葉のお遊びです、で済んだのかも知れない。
そーいうおじさんのやり方を、これからも踏襲するつもりなのかどうかという点も、建築系ラジオの姿勢に問いたい。おじさんの遊び場、と割り切って付き合う しかないメディアもこれから残り続けるかも知れないけれど、「建築系ラジオ」という新しいメディアには、そこでこそできることを、して欲しい。建築を扱う メディアに関わる、自分への自戒も込めつつ。
追記:
ほんとは放送の中で、一緒に「こたつ」について話してはいるけれど、向かうベクトルが違っていることを、出演者同士で指摘し合えてたら、ぐっとクオリティが高まったと思うんだよね。ていうかそれだけで、私は恥ずかしいだのなんだのと文句言わなかった。
誰かが山田さんに、たった一言「それ批評じゃなくない?」って突っ込めてたらなあ。今日話してて、思い出した。慎也さんありがとう!
五十嵐さんは批評家だから、批評の問題に発展した。私はメディアに関わるものとしてラジオを聴いてしまった以上、、建築メディアについて考えるきっかけになった。だから「「こたつ問題」を如何に語るか問題」になった。ということだと思うんです。
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19-1
「こたつ」が実現不可能と判断された後、イメージ画がトリミングされたのではないかという疑惑w
個人的にはそんな阿呆なプロセスがまかり通っているトリエンナーレ側に憤りを感じます。このエントリは、読者からのコメントもえらい情報量ですね。
」
*「カルチべートトーク」(第4回)
主 催:建築文化事業委員会
テーマ:アーティストの彦坂尚嘉さんと語る、
こたつ問題1970〜2009/建築と美術のあいだ
主 旨:
時流とは関係なく本当に聞きたいこと、必要とされる知識、いま聞いておかなければ聞けなくなってしまいそうな話などを、少人数でもよいからそんな文化を共有・継承したい、という主旨で始まった日本建築学会建築文化事業委員会の委員が運営するトークシリーズの4回目です。
1946年生まれの彦坂尚嘉は、1969年に美共闘を結成し、床にラテックスをまくフロアイベントや幾何学的なフレームをもつウッドペインティングなどを手がけ、ヴェネチアビエンナーレやサンパウロビエンナーレにも出品した作家である。各種の展覧会や美術論の著作などによっても、戦後日本美術史において重要な位置を与えられている。そして彦坂は、建築の分野にも強い関心を抱き、近年は皇居美術館空想のプロジェクトや越後妻有トリエンナーレを通じて、美術を越境するような活動を展開している。そこで40年の活動の軌跡を通じて、美術と建築の関係について語っていただく。
また彦坂はアーティストとしては珍しく、歴史を重視する立場をとり、歯に衣をきせぬ美術評価の物言いでも知られている。おそらく、それは10年程度のパー スペクティブだけで議論を構築したり、耳障りのいい言説しか知らない若年層に対しても、破壊的な批評力をもつだろう。後半は、建築と美術が参加する越後妻 有トリエンナーレ2009の出品作を素材にして、両分野の現在について検証し、批評とメディアの状況もあぶりだす。また通称「こたつ問題」と言われるト ピックについても触れて、参加者からの意見もいただきながら、幅広く、討議を展開したい。彦坂のフロアイベント(1970-75)は、現代美術としては初 めて畳やこたつを含む家具を用いた作品であり、会田誠のこたつ派などの事例も挙げながら、建築と美術のあいだを考えていく。
なお、今回は会場にて、Twitterを使っての議論の参加も歓迎する。
担当:建築文化事業委員会委員:五十嵐太郎
講 師:彦坂尚嘉(アーティスト)
期 日:2009年9月28日(月)
時 間:18:00〜20:00
場 所:建築会館会議室(東京都港区芝5-26-20)
定 員:30名(申込先着順)
参 加 費:1000円
申込方法:E-mailで「①氏名、②所属、③連絡先電話番号、④第4回カルチベートトーク参加希望」と明記のうえ、お申込ください。
問合せ先:日本建築学会事務局 出版・普及事業グループ 鎌田
TEL 03-3456-2056 E-mail kamata@aij.or.jp」
・審査員の構成メンバーが微妙で、 明らかな街並み派(伝統的なデザインの記号があるだけで萌えるタイプ)と、(現代的なデザインのクオリティにこだわる)モダン建築派に分かれており、僕は 後者。今日は審査員で建築家が一人欠席したため、苦戦するかと思ったのですが、実際に見たことがある2つの住宅(若手の建築家による設計)をなんとか二次 審査に残せました。毎年、すぐれた住宅をなかなか二次に残せないので、もどかしいです。こたつ問題は、人によって受け止めかたはさまざまだと思うが、僕に とっては審査員としての立場が大きい。勝手に建築界を代表するな、という意見もあるだろうが、異なるジャンルの人と同席する審査の場に立つと、どうしても 考えてしまう。こんなひどいことをやっていると、「建築」の立場は悪くなると。もちろん、よけいなお世話だ、という嫌みをいう人はいるでしょうが、いかに 建築を社会に伝えていくかが自分にとってのミッションだと思っているので。」
建 築系ラジオ『37B: オープンデスク学生との本音トーク「夏のオープンデスクを終えて」』を聴いた。建築家の松田達さんの事務所でオープンデスク(インターンと同意なのだろ う)に来ていた学生さんの本音トークで、25分経過した頃から「こたつ問題」を題材に深い議論がされていた。
こたつ問題については、このブログで以前に書いたので、まず参照いただくと、話が早い。
こたつ問題(http://channelp.exblog.jp/10875877)
私 は一連のこたつ問題欠席裁判の収録にも立ち会っていたし、現地で動画を撮影し、ラジオ配信直後にYouTubeで動画を配信した。今日までの20日間ほど で1400件のアクセスがあった。25本の越後妻有の動画の中で最も多いアクセスで、アクセス全体の6分の1以上を占めている。かなり話題になったことが わかる。単純計算ではあるが。
今回の『オープンデスク学生との本音トーク「夏のオープンデスクを終えて」』では、こたつ問題を配信した後に巻き起こった、さまざまな問題が網羅されていた。
・「配信した」ということ
・「話し方、話しているときの周囲のリアクション」ということ
・「無編集(生放送的な番組)」であったこと
・計画と実現の可能性
・コンペまたは公募に応募する目的
・コピー、模倣ということ
・オフィシャルかプライベートか
これは私が携わってきた、メディア作りや、企画制作という仕事にも通じる点が多い。
中 で、「個人攻撃の後、免罪符的に最近のコンペをめぐる問題に話を広げているように思い不快だった」という意見も出ていた。わからなくもないが、身近な話題 から社会をつなげて考えることは、昔からある一般的な手法である。今回の「こたつ問題欠席裁判」の番組内では、現場の雰囲気が雰囲気だっただけに、盛り上 がったし、あの熱はあそこだから生まれたもので、不快に思う人がいることは理解できるが、それも含めて、問題提起をするオルタナティブメディアの新しい動 きが見えてきた。個人的には歴史的な出来事だと捉えている。
後日また話したいと松田さんが述べていた、メディアでの発言の捉え方「オフィシャルかプライベートか」に関連する話題として、「きっこのブログ」に興味深い記事が載っている。
「きっこのブログ」は転載禁止とあるので、詳細は以下のリンクから読んでいただくしかない。
きっこのブログ「正義という免罪符の幻想」
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2009/02/post-71f3.html
「きっこ」は、ハンドルネームで個人情報の公開はしていない。ヘアメイクアーティストで、夫婦ともに芸能界周辺にいるらしい。そのくらいの情報(噂)にも関わらず、ものすごいアクセス数があるという。
だからこそ、きっこ自身も商品やお店の悪いことを書くときは悩む、と言っている。不愉快への復讐をする自分が卑しい気がする、けど、自分と同じ不愉快な思いをする人を増やしたくない、と。
私は、こたつ問題を配信したことは良かったと考える。
私自身がこたつの動画を配信したことも、これは当初少しだけ躊躇したが、良かったと考えている。
作品「みんなのこたつ」の作家にたいする批判的な気持ちもあった。が、どこでも起こりうるモラルの欠如や、企画を実行するということを問いたい気持ちがあった。
また、個人的な見解ではあるが、私の基本的な考え方に、人を悪く言うのは、決して楽しいことではない、ということがある。願わくば、ひとやものを悪くなんて言いたくない。
いくら人の悪口を平気で言う人でも、心のどこかで、きっこの言う「卑しい自分」の存在が自分の心を荒んだものにするのだと思う。性善説をもとにした楽観的思考なのかもしれないが、基本的にそう思う。
ひとやものを悪く言った言動が影響力をもつとき、まるで鋭い刃を素手で握るように、自分も傷を負うものだと思う。実名で顔が見えるところでそのような発言すれば、なおさらである。
ならば、言わなければいい、ということではない。
傷つきたくないから、関係をこじらせたくないから、口をつぐむ。本心を言わずに偽善で付き合うようになる。メディアは同じことしか言わなくなり、それが一般論で正解で、それ以外の意見は不正解で、仲間はずれにされたり、発言自体抹殺される。
そのようなことは、そろそろ終わりにしたい。何が正解かなんて、権力者が決めるものでも、多数決で決めるものでもない。正解は個人の意思の中にそれぞれあって良いと思う。そして、それを広く発言すること、それをもとに議論を深めていくことをしたい。
話が飛躍したが、「こたつ問題」は確実にメディアの新しい歴史を作っていると思う。
今回の建築系ラジオでの松田達さんと学生さんたちの、本音の深い議論を聞けて、とてもよかった。
今回も番組は長いが、「こたつ問題」を知らなければ分からない話でもあるが、時間のある方は
35A: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」
を聞き、
こたつの動画を見て、
下記『オープンデスク学生との本音トーク「夏のオープンデスクを終えて」』を聞くことをおすすめしたい。
世の中には語られない問題、表に出ていない問題が多い。
=====
」
「以前のこたつ問題のラジオに対して、不快という反応が起きていたのですが、以下にご紹介するラジオは、大変に長いものですが、25分くらいからこたつ問題が語られています。
これへの反発が起きていて、さらに強い批判をなげかける反応が来ています。その反応のメールを引用できると良いのですが、個人メールということもあるので、控えます。
37B: オープンデスク学生との本音トーク「夏のオープンデスクを終えて」
松田事務所の日常
聴く: オープンデスク学生との本音トーク「夏のオープンデスクを終えて」
(MP3形式、38.4MB、1時間23分57秒)
「私は最初見つけることができず、娘だけが発見しました。
「「こたつ」あったみたい。」」以下、こちらにて。
「「大地の芸術祭」訪問時(8/3)、まだ完成していない作品もいくつかあった。」以下、こちらにて。
実は、さっきのガンダムの魅力に通じるところがあるのかなって思う。」以下、こちらにて。
「五十嵐太郎さんと松田達さんにリンクを貼って頂いたので多くの人が来てくれているのだけど、内容が無くて申し訳ない。」以下、こちらにて。
「さて、こういうわけで、これは他の回も聴いておかねばなるまいと思い、「建築系ラジオ」を初めて拝聴したのだったが、それがいきなり「こたつ問題」の番組だった。
35A: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」 - 建築系ラジオ-2部
ディテール侍節が冴えわたる(あとで気付いたが、何気に壁嬢もいるじゃないか)話は面白いが、なんというか。
趣旨はわからなくはないが、「建築」関係者がこれを「建築界の問題」として謝ってみせたりしなければならないのか、という点は、よくわからない。
僕自身は現物を見ていないし、作品自体も参加型で成長するよ うなので何ともいえないが、仮に不出来だったとして、「ダメなアート作品」は単に「ダメ」と評価すればいいのではないか。「アート祭り」に貧相な作品が出 品されたこと自体は、建築の問題というよりも、こうした玉石混交を許容してしまう「アート祭りのシステム」の問題だろう。審査員のリテラシーの問題という べきか。ダメな作品ひとつ見ただけで「建築系はダメな作品を送り出す」なんて思い込むほど来場者がみんなナイーブじゃないと思う。作者が建築系だという理 由で責められるのはちょっと気の毒だ。作者の「属性」というのは「アート作品」の鑑賞や享受においてそんなに重要なんだろうか。どうもこのへんの現代アー トのプロトコルというかロジックというか、扱いの「作法」はよくわからん。
もっとも、提案時のプレゼンテーションを見るに、それはいかにも『洗濯物と植物しか描いていない』系(@藤村龍至)のレンダリングではあって、そう いう意味で、建築系の人たちとしては、近年のこうしたノリの提案が実際は建築物として実現するにはかなりアクロバティックなエンジニアリングが動員された りもする、相当なガッツ(と政治力)がないと「具現化・物体化」しないたぐいのものであるにも関わらず、夢想提案だけはわりと簡単にできてしまうし、そう いうテイストの提案が持てはやされたりするために、キッズが勘違いしてしまう、という、「建築系内部の問題」と受け止めることは可能である。というか、そ れのほうが深刻なんじゃなかろうか。「こたつ問題」は、「建築力を伴わないSANAAワナビーを許す建築コミュニティの問題」なのかもしれない(ラ系のパ ストラル症よりもたちが悪いかもしれない)。
建築キッズたちが引き出しうる教訓としては、「むしろ、いっそ建築の国際コンペとかだったら、投下される資源が大きいために、エンジニアやゼネコン がよってたかって実現させちゃうなんてことも起きかねないが、こういう村おこしアート祭りの場合は、結構あっさりハシゴを外されて放り出されることもあ る」ということを覚えて、気をつけようね。ということだな。
コメント
そもそも建築キッズ達はこのような声を聴いているのか
それでもなおある像を信じ続け、そのまま続けるのか
そして、それは建築キッズだけでなく現在の若手建築家にも投げかけたい問いです。このまま行くと日本の建築界はぼろぼろになるのではないでしょうか
コメントありがとうございます。
じつは、上記、出展者たちを慰めるというか、少し擁護しようと思って書いたのですが、なんか読み返してみたらちっとも擁護していない趣になっちゃいました。。。 まあ、建築のトレンドは流行り廃りがあるし、それ自体はあまり心配していないのですが。
確かに彼らは少しかわいそうだったかもしれませんね
過去にもダメダメなアート作品はありますから、たまたま彼らが取り上げられただけで、この問題に関しては誰でも良かったのではないかと思います。あえて理由をあげるなら東京大学の大学院生だったということでしょう。後輩でもあり、話が展開しやすそうでもあります。
もちろん、建築系の人々のインスタレーション、アート作品には(もし本気で作っていたとしても)アートをなめているように感じることが多々あり、建築の恥さらしはいい加減やめてほしいと思うこともありますが、
今回のこたつ問題は、これから展開するとすれば石川さんの言う「建築系内部の問題」の方へと行くでしょう。
今まで暗黙の了解の域に誰もが触れずにきたことはおかしなことだと思いますし、建築系ラジオのメンバーの方々は教育者であり審査をする機会も多いですから、それを危惧しているのだとも思います。
な るほど。なんか、建築の人はどこでも「建築代表」な顔をするような気がして、そんなにいつも建築を背負っていなくてもいいじゃんかと(逆に言えば、建築関 係者だからといって何をするにも建築的に評価しなくても、と)思うこともあるのですが、今後、建築内部の問題として、たとえば「あれをセルフビルドの建築 物だと見なしてみたらどうよ」議論になるならそれはそれでありかもしれないと思いました。
考えてみたら、建築系の人々の「緑のデザイン」にはいつも、環境へのリスペクトが絶無というか、植物をなめてると感じることが多々あります。もしかして、建築は隣接分野のみんなに、なめんじゃねえぞと思われちゃう、悲運な領域なんだったりして。
んー、私自身、建築の枠の中にいるのですべての人がそうではないとしか言えません。他分野の人からすれば、そう見えているんですよね
「あれをセルフビルドの建築物だと見なしてみたらどうよ」というのはちょっと極端な気もしますが、
何か自分が作るものへのこだわりや思い入れが軽くなってきているようにも感じます。そして、それを発表した時に起こりうることなど考えるべきことを考え
ず、審査に通るものをつくり、結局自分の建築力は一向についていかない。いろいろなものがどんどん軽くなってきているようにも思います。
「緑のデザイン」についてもそれが言えるのかもしれません。確かにメディアに露出している多くの建築家について私もそう感じています。御存知だとは思いますが、一方で環境をリスペクトして考え作っている人も沢山います。
建築をそう感じて、建築から出て行く友人もいました。それでもなお建築に魅力を感じるから未だに私はこちらにいるんですけどね。
もちろんです。僕も建築に魅力を感じ、多くの素晴らしい「建築系」と接する機会を得ているからこそ、このへんでこんなことしているわけです。
自分は建築業界はよく知らない鑑賞者です。
彼らの他作品を見たことがあり、しかもそれらは結構しっかりとしたコンセプトとクオリティと保っていました。しかしながら今回こういった作品が出品され、なぜこうなったのか?検索しているうちにこちらにたどり着きました。
「建築内部の問題」もあるのかもしれませんが、今回は地方に出て行って制作する事が、彼らの計算と大きく異なっていたのではないかと思います。計算できる事も実力のうちと言われればそれまでですが。
僕も代官山の舗装ベンチなんて良いと思いました(これも実物は見ていませんが)。
鑑賞するこちら側に悪いようなコメントしてるけど、それでもやっぱり鑑賞する側(消費者)を馬鹿にしてない?
途中に聞こえる薄ら笑いみたいのがキモイ!!」以下、こちらにて。
http://radio.tatsumatsuda.com/
http://www.youtube.com/watch?v=vRHOf_fnnT0
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2009-08-15-2
http://www.musabi.com/key_t/archives/2009/08/15_2110.php
http://d.hatena.ne.jp/itu415/20090815/1250337656」
見に来て下さった方に、好きな形に切ってもらった布を、こたつの布に貼り付けていくワークショップを週末毎にしています。」以下、こちらにて。
「今回の越後妻有でもっとも驚いた作品。「こたつ問題」と呼ばれ、早くも話題になっている。越後妻有では、建築を専門分野とする方も多く出展していて、建築系のメンバーは主に建築家の仕事を見ていた。その中で起きた問題である。」
明らかに大掛かりな(と、建築家ならわかるようです)案を出し、コンペで合格し、出展されているが、果たしてどんな風に実現させたのか、と見に行った。
映像を作るうえで、いろいろ考えたが、どんな出来の作品も、予算・規模が違えども、350ほどある越後妻有トリエンナーレの作品の一つであることに変わりはない。
動画リポートのひとつとして、他の作品と同様に扱うこととした。
作品には作家の愛が込められているものだ、と思いたいのだが、きりんの横に置き去りにされた、なんだかかわいそうな状態の作品である。
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建築系ラジオの収録現場には私もいた。41分と長いが、面白い中でとても大切な議論がされているのでぜひ聴いてほしい。建築、美術だけではなく、モラルの問題でもあると私は考える。
====」
聴く: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」
(MP3形式、28.7MB、41分45秒)
コメント 3
建築ラジオ、面白く聞きました。気になって、ネットで画像検索かけましたが
ようやく1点だけみつけていました。
http://tacumi.img.jugem.jp/20090726_1309284.jpg
彦様の写真は、ディテールがよく見えるので、
議論の中のことがよくわかりました。
先例ということでは、建築系の中よりも、現代美術の中に、
こういうアイディアは、すでに使われていることも思い当たりました。
ザ・プレイのベンチという作品、1971年です。
コンセプトも「その上で人々が出会い、 休息し、通り過ぎるための場」
で、こちらは、上で楽器を演奏したりもしています。
http://www.ne.jp/asahi/ike/mizu/p/bench/bench.htm
彦坂さま
実際の作品は見ていないのですが、彦坂さまの写真や
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=518
にて拝見し、ラジオも拝聴しました。
この作品を選んでしまった審査員(審査というのが実際に、どうやっておこなわれているのか不明)にも責任があるのかなと個人的に思えました。
「こたつを囲んでピクニック。そのプロセス全部が一つの作品だ。」というのも、いかがなものか。これがコンセプトです。と言われるのは非常に困る。
何だか、美術や建築に普段関わらない素人や鑑賞者たちを馬鹿にしているのではないかとさえ思えてきます。
ピクニックするのに、こたつは要らないし、なぜココでこたつなのかも全く分からない。
「大きな掘りごたつ」と案には書かれてあるが、この案の図でも、伝わってこないのですけど。(苦笑)
こたつとしても、デザイン(すでにデザインと呼べる物なのか?)として、これは子供が見ても、こたつでは無いでしょう。
ボランティアさんがいたとしても、このような作品(?)を手伝いたいとは思わない。
ラジオの26分あたりに、これらの例は他にもあるという話には同感できました。
彼らが参加したと言われるコンペに参加をして負けた人たち、他の東京大学院の生徒さん達にも大変失礼な作品(?)だと思います。
しかし、このように公開ラジオで批評を聴けるということが素晴らしい事だと思います。ありがとうございます。
予算が無いのだったら、どうして予算に入り込まないほどの大きな事をしたがるのだろうかと不思議に思えるのです。
そこまで計算できるのも、作家の責任ではないでしょうか。
そんな事を思います。
・2003年は一泊、2006年は二泊、今回は三泊です。ただ、2009年は、新しい建築も登場していないし、目玉となる大がかりなアートの新作も少ないために(新作の規模が小さい)、リピーターとしてはやや寂しい。継続して参加している彦坂尚嘉さんの田麦のプロジェクトは変奏させながら、作品を展開し、古民家を解体させるほど、建築的になっていく。日没後にランプで照らされた光景はデヴィッド・リンチの 映画に出てくるような、ぞくぞくする闇に浮かぶ異空間キャバレーとなる。杉浦久子さんの雪ノウチも三度目で、まわりの敷地の変化を思いだしながら、鑑賞。 越後妻有を繰り返し訪れることで、ああこの空き地にあの作品があったとか、今度は作家がこうした手法になったとか、記憶との関連で楽しめるようになった。
・廃屋×アートによるお化け屋敷的な展示は、定番となったが、今年はアンティエ・グメルスが ブナ林を妖怪の空間に変えていた。木村吉邦による江戸のオルタナティブ・テクノロジーをテーマにした理系アートは、越後妻有的ではないが、好みでした。な お、工場跡地に展開した瀧澤潔さんの作品「津南のためのインスタレーション ーつながりー」には、「表層と現象:瀧澤潔のインスタレーション」というテキ ストを寄せました。現地にて配布しています。
・さて、あまりこういうことは書きたくないのだが、mvrdvの農舞台の真横にある大杉哲也+伊藤友隆/pop-up-tokyoの「みんなのこたつ」は、とても良くなかった。個人的に、tepcoの 「アイデア」・コンペの審査員として彼らの案を二度も入賞させたことがあり、そのプレゼンテーション能力の高さはすばらしいと思うのだが、その一方で実際 にモノをつくるという現場においてすさまじい乖離を露呈している。出来ないこと/こだわりがないことを提案するのも良くないし、それを公募で選ぶのもまず いかもしれない(自省をこめて)。なぜ、この作品がまずいのか、いや建築界の問題でもあるのだが、これについては建築系ラジオを収録したので、後日配信し ます。とりあえず、これを「こたつ問題」と呼ぶことにした。」
Podcastもインデックス可能な時代なのです。
http://podcastle.jp/
podcastleが登場したときに
http://minken.net/mt/archives/000582.html
こう思ったんですが、空気読んで、検索エンジンに怯えて暮らすのはちょっとイヤですよね。