身辺メモの最近のブログ記事

tweet the radio(身辺メモ)

アーティストの彦坂尚嘉さんと語る、こたつ問題1970~2009/建築と美術のあいだ

に、twitterで参加した。8時過ぎくらいまで職場を離れられない用事があったのだが、結果的にはストリーミング配信視聴+twitter打ちまくり、という体制は実に仕事の邪魔で、ほとんど進まなかった(少しは進んだ)。

今回、取り上げられた「作品」とそれをめぐる言説、いわゆる「こたつ問題」についてはまあ、もういいだろう。いちおう、製作者本人と「ラジオ側」と の一種の「和解」が決着していて、事前に僕が思っていたほどの後味の悪い結末にはならなかったらしい。ということは記しておく。」以下、こちらにて。

「・こたつ問題を問題化する集団のありかたについて

僕は(以前にも同じことを書いたけれども)、ダメなアート作品には単にダメだと罵ればいいのであって、何もそのダメさを建築のプロが業界を代表して 「建築の問題」として引き受けなくったっていいじゃんか、とは思う。先日、大山さんが、あれは建築業界内部の問題をわざと外部に発信する(ように見せる) ことで、逆に内部の結束を固めようという意図があるみたいに聞こえる、と言っていたのだが、そういう、「いや、誰もそんなこと頼んでないけど」という困惑 というか、建築系の人たちというのは世界が建築系だと思い込んでるんじゃないかという違和感はよくわかる。

もっとも、そういう「引き受けたがり」は建築の業病みたいなもので、地縁共同体問題から地球環境問題まで、その時その時に脚光を浴びている様々な問 題を我が事のように悩んで「建築の課題」として背負い込もうとする抜きがたい傾向が建築にはある。そこがまあ、鬱陶しいところでもあり、愛すべきところで もあるんだけれども。むろん、それは建築だけではなく、ある「社会的使命」を自覚している専門領域はみんな、多かれ少なかれそうした傾向を持っている。

あえてこれを議論の俎上に乗せる、「自他ともにそれが建築系だと認知された状況で異種格闘技的アート祭りに貧相なものを出展することの責任と、それ を看過できない背景」については、五十嵐隊長から直接、少し話を伺った。もちろん議論の余地はあるにせよ、分からない話ではなかった。来るシンポジウムで も言及があるとのこと。とはいえ、僕はどちらかというと、建築系をアート的に鍛える議論にとどまらずに、「村おこしアート祭りシステムの有効性と是非」に 議論が発展すると面白いなと思う(そうしないと、作者もちょっと可哀想だ)。

・こたつ問題を問題化する「取り上げ方」をめぐる議論について

僕自身は心情的に山田さんの側に立っている。ということをまずは表明しておきたい。そのうえで。

山田さんの「喋り」調子を批判(非難)する意見の「根拠」として、しばしば「ラジオという媒体で配信するべき内容の水準に達していない」から、と述 べられているのを見かける。「むしろ語り方問題のほうが深刻だ」とまで表明してるものもある。でも「ラジオ」と銘打っているものの、あれは電波で番組を放 送する従来の意味での「ラジオ」じゃなくて、音声ファイルをブログに掲載してるだけの「ポッドキャスト」である。あれを「公共の」というなら、細かい内容 まで検索にインデックスされて蓄積されてゆくブログやBBSのほうがよほど公共的な情報であって、かつよほど低俗で劣悪な誹謗中傷に満ちているが、それに 「作法」を要求するのはまるで「ブログだって公共のネットに公開しているなら、そのへんのマクドナルドでケータイで入力なんかするな。机に向かって正しい 姿勢でテキスト作成しろ」と言っているみたいに聞こえるが。

というか、これ、そういう意味でわざと「ラジオ」というタイトルを入れているとしたら、なかなか巧妙なツカミだけれども(いや、そこまでは考えてい なかったかもしれないが)、少なくとも今回、この「ラジオ」という言葉は、批評のありかたとかいう議論以前に、「それぞれのメディアにふさわしい内容と作 法とノリ」について、僕らのイメージは意外に強固で保守的だ、ということを露呈した。と思った。

まあ、ディテール侍のあれはもう「芸風」であって、キライな人はキライだろうが、そうなら「あの喋り調子は嫌いだ」と言えばいいと思うな。「ダメなアート作品には単にダメと言えばいい」というのと同じ話で。

追記:

ネット上の反応を見て、おもしろいと感じたのは、どうも若い人のほうが、批評について保守的なイメージをもっていること。

TWISTED COLUMN

批評についてのイメージもそうだし、若い人ほど、引用の仕方だとか語り口だとかに対して、「ネットリテラシー」とか「モラル」などと言って、察してやれよ 的な物言いをしているような気がする。オヤジが暴走しているのか、キッズがやけに射程距離の短い「空気読む世代」なのか。もちろん、オヤジをオヤジたらし めるのは、多少の社会秩序にもとることをしても周囲には叱る人なんかいない、という開き直りというか甘えでもあるのであって、キッズもあと15年もすれば みんな空気が読めなくなってくるのかもしれないが。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://fieldsmith.net/mt/mt-tb.cgi/843

コメント

Podcastもインデックス可能な時代なのです。
http://podcastle.jp/
podcastleが登場したときに
http://minken.net/mt/archives/000582.html
こう思ったんですが、空気読んで、検索エンジンに怯えて暮らすのはちょっとイヤですよね。

あ、podcastleはすばらしいと思います。ほかの検索エンジンもすばらしい。
怯えるかのような態度はイヤ。

「はい建築系ラジオです」→「ううう体験して出しです。」どういう空耳なんだ。

下手に訂正しないで、まずはあの「自動テープ起こし」の文章だけ読んで、なんとか意味をつかみ取る、という鑑賞法もありますね。

「Podcastleのテキストだけからオリジナルのストーリーを想像して絵にする」:デイリーポータルの企画っぽい。

「さて、こういうわけで、これは他の回も聴いておかねばなるまいと思い、「建築系ラジオ」を初めて拝聴したのだったが、それがいきなり「こたつ問題」の番組だった。

35A: 建築系ラジオ緊急謝罪会見「『こたつ問題』欠席裁判」 - 建築系ラジオ-2部

ディテール侍節が冴えわたる(あとで気付いたが、何気に壁嬢もいるじゃないか)話は面白いが、なんというか。
趣旨はわからなくはないが、「建築」関係者がこれを「建築界の問題」として謝ってみせたりしなければならないのか、という点は、よくわからない。

僕自身は現物を見ていないし、作品自体も参加型で成長するよ うなので何ともいえないが、仮に不出来だったとして、「ダメなアート作品」は単に「ダメ」と評価すればいいのではないか。「アート祭り」に貧相な作品が出 品されたこと自体は、建築の問題というよりも、こうした玉石混交を許容してしまう「アート祭りのシステム」の問題だろう。審査員のリテラシーの問題という べきか。ダメな作品ひとつ見ただけで「建築系はダメな作品を送り出す」なんて思い込むほど来場者がみんなナイーブじゃないと思う。作者が建築系だという理 由で責められるのはちょっと気の毒だ。作者の「属性」というのは「アート作品」の鑑賞や享受においてそんなに重要なんだろうか。どうもこのへんの現代アー トのプロトコルというかロジックというか、扱いの「作法」はよくわからん。

もっとも、提案時のプレゼンテーションを見るに、それはいかにも『洗濯物と植物しか描いていない』系(@藤村龍至)のレンダリングではあって、そう いう意味で、建築系の人たちとしては、近年のこうしたノリの提案が実際は建築物として実現するにはかなりアクロバティックなエンジニアリングが動員された りもする、相当なガッツ(と政治力)がないと「具現化・物体化」しないたぐいのものであるにも関わらず、夢想提案だけはわりと簡単にできてしまうし、そう いうテイストの提案が持てはやされたりするために、キッズが勘違いしてしまう、という、「建築系内部の問題」と受け止めることは可能である。というか、そ れのほうが深刻なんじゃなかろうか。「こたつ問題」は、「建築力を伴わないSANAAワナビーを許す建築コミュニティの問題」なのかもしれない(ラ系のパ ストラル症よりもたちが悪いかもしれない)。

建築キッズたちが引き出しうる教訓としては、「むしろ、いっそ建築の国際コンペとかだったら、投下される資源が大きいために、エンジニアやゼネコン がよってたかって実現させちゃうなんてことも起きかねないが、こういう村おこしアート祭りの場合は、結構あっさりハシゴを外されて放り出されることもあ る」ということを覚えて、気をつけようね。ということだな。


コメント

そもそも建築キッズ達はこのような声を聴いているのか
それでもなおある像を信じ続け、そのまま続けるのか
そして、それは建築キッズだけでなく現在の若手建築家にも投げかけたい問いです。このまま行くと日本の建築界はぼろぼろになるのではないでしょうか

コメントありがとうございます。
じつは、上記、出展者たちを慰めるというか、少し擁護しようと思って書いたのですが、なんか読み返してみたらちっとも擁護していない趣になっちゃいました。。。 まあ、建築のトレンドは流行り廃りがあるし、それ自体はあまり心配していないのですが。

確かに彼らは少しかわいそうだったかもしれませんね
過去にもダメダメなアート作品はありますから、たまたま彼らが取り上げられただけで、この問題に関しては誰でも良かったのではないかと思います。あえて理由をあげるなら東京大学の大学院生だったということでしょう。後輩でもあり、話が展開しやすそうでもあります。

もちろん、建築系の人々のインスタレーション、アート作品には(もし本気で作っていたとしても)アートをなめているように感じることが多々あり、建築の恥さらしはいい加減やめてほしいと思うこともありますが、

今回のこたつ問題は、これから展開するとすれば石川さんの言う「建築系内部の問題」の方へと行くでしょう。
今まで暗黙の了解の域に誰もが触れずにきたことはおかしなことだと思いますし、建築系ラジオのメンバーの方々は教育者であり審査をする機会も多いですから、それを危惧しているのだとも思います。

な るほど。なんか、建築の人はどこでも「建築代表」な顔をするような気がして、そんなにいつも建築を背負っていなくてもいいじゃんかと(逆に言えば、建築関 係者だからといって何をするにも建築的に評価しなくても、と)思うこともあるのですが、今後、建築内部の問題として、たとえば「あれをセルフビルドの建築 物だと見なしてみたらどうよ」議論になるならそれはそれでありかもしれないと思いました。

考えてみたら、建築系の人々の「緑のデザイン」にはいつも、環境へのリスペクトが絶無というか、植物をなめてると感じることが多々あります。もしかして、建築は隣接分野のみんなに、なめんじゃねえぞと思われちゃう、悲運な領域なんだったりして。

んー、私自身、建築の枠の中にいるのですべての人がそうではないとしか言えません。他分野の人からすれば、そう見えているんですよね

「あれをセルフビルドの建築物だと見なしてみたらどうよ」というのはちょっと極端な気もしますが、
何か自分が作るものへのこだわりや思い入れが軽くなってきているようにも感じます。そして、それを発表した時に起こりうることなど考えるべきことを考え ず、審査に通るものをつくり、結局自分の建築力は一向についていかない。いろいろなものがどんどん軽くなってきているようにも思います。

「緑のデザイン」についてもそれが言えるのかもしれません。確かにメディアに露出している多くの建築家について私もそう感じています。御存知だとは思いますが、一方で環境をリスペクトして考え作っている人も沢山います。
建築をそう感じて、建築から出て行く友人もいました。それでもなお建築に魅力を感じるから未だに私はこちらにいるんですけどね。

もちろんです。僕も建築に魅力を感じ、多くの素晴らしい「建築系」と接する機会を得ているからこそ、このへんでこんなことしているわけです。

自分は建築業界はよく知らない鑑賞者です。
彼らの他作品を見たことがあり、しかもそれらは結構しっかりとしたコンセプトとクオリティと保っていました。しかしながら今回こういった作品が出品され、なぜこうなったのか?検索しているうちにこちらにたどり着きました。
「建築内部の問題」もあるのかもしれませんが、今回は地方に出て行って制作する事が、彼らの計算と大きく異なっていたのではないかと思います。計算できる事も実力のうちと言われればそれまでですが。

僕も代官山の舗装ベンチなんて良いと思いました(これも実物は見ていませんが)。